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生い立ち編① 子供時代

2022.02.24

生い立ち編

僕は1982年生まれ。今年で40歳になる。八百屋を始めたのは23歳の時だった。これまで就職をしたことがなく、八百屋しかしたことがない。八百屋を続けてきて、しんどいな、辛いなと思うことはたくさんあったし金銭的に辞めなきゃやばいかもという時は何度もあったが、辞めたいと思ったことは一度もない。今となっては歳も歳だし子供もいるし、今さらやめられないという気持ちの方が強いけど(笑)。平々凡々に育ってきた僕が、どうして八百屋になったのか。それを子供時代から振り返ってみたいと思う。

僕は兵庫県芦屋市という、有名企業の社長さんや阪神タイガースの選手が多く住む、お金持ちの街として有名な土地で生まれ育った。父は銀行員、母は専業主婦、姉一人。比較的裕福な家庭で愛情もたくさん注いでもらい、何不自由なく育てられたお坊ちゃんだった。小学校1年になる時、父が転勤となり東京の駒込という町へ引っ越した。駒込では小学校1年~4年までを過ごした。東京駒込の暮らしは、芦屋とは違い商店街が賑やかで下町の風情や人情味があって、子供ながらに好きだった。その後また小学校5年の時に芦屋に戻ってきた。芦屋、東京とどちらも市街地で育ち、田園風景や自然が豊かな環境とは無縁。あまりそういった場所に遊びに連れて行ってもらうこともなかった。カブトムシを取ってみたい、海で泳いでみたい、釣りをしたり魚を採ってみたい・・そんな遊びが憧れという子供時代だった。

小学校時代は公文や塾に行かされていて、成績はいい方だった。親からしても素直で聞き分けのいい、「いい子」だった。また目立ちたがり屋の仕切り屋で学級委員長とかをやりがたるタイプだった。コンプレックスは運動音痴だったこと。野球が好きで少年野球もやっていたが下手くそだった。小学校は足の速い子、ドッチボールがうまい子がカースト上位にくる世界。運動会のリレー選抜で選ばれた子を羨望のまなざしで眺めていた(笑)。

そんないい子だった僕がすこーし変わり始めるのは私立中学校受験をさせられたあたりから。小学校4年くらいまでは素直に塾に行ってそれなりに楽しんでいたが、5年、6年と進むにつれ勉強も難しくなり塾も忙しくなる。次第に「何のために塾に行ってまで勉強しているのか」「今しかない子供時代なのになぜ遊べないのか」という気持ちが強くなっていった。そしてある時、リビングの机に置いてあった保護者向けのプリントに「大学受験はもう始まっている!今から準備しなくては遅い!」といった内容が書かれているものを目にした。それを見た僕は、自分の人生がもう勝手にレールを決められているような気がしてとても嫌になってしまった。親は僕を中高大学一貫校へ進ませようとしていた。いい大学に入って、いい会社に入ってほしい、子供に苦労はさせたくない・・という親心は今ならよくわかるのだが、当時は子供ながら反発心が芽生え始めた。そしてこの親のレールは歩きたくない!という気持ちはこの後どんどん強くなっていき、結果的には親の望んだ生き方とは真逆の方向へ行ってしまうことになってしまうのだった(笑)。

表立って反発することはないものの、受験間近には勉強する気はほとんどなくなっていた。塾に行ってもボケーっと座ってやりすごした。そして「ここに行きたいからここしか受けない!」とウソを言って、絶対受かりそうにない、かつ親も納得するであろう志望校を設定した。下手な学校を受験して、うっかり試験を頑張って受かってしまいたくなかったから(笑)。他の友達と同じ普通の公立中学に行きたかった。受験のない友達が羨ましかった。早く受験が終わって遊びたかった。

そんなイヤイヤ中学受験まであと2週間ちょっとという1995年1月17日。あの阪神淡路大震災が芦屋を襲った。

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