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生い立ち編② 阪神淡路大震災

2022.02.25

生い立ち編

1995年1月17日5時46分。叩きつけるような激しい揺れと轟音で目を覚ました。揺れが収まると、僕と姉の名前を呼ぶ母の大きな声がした。幸い家族は怪我もなく全員無事だった。姉と二人、毛布にくるまって震えていた。外では雷の落ちたような轟音と、何かのタンクが破損したのか激しく水の流れる音がしていて怖かった。

夜が明けたころ、近くの民家の瓦が崩れているのを見て驚いた。この時はもっともっと大変なことが起きていることをまだ知らなかった。父は会社が心配だといって会社へ様子を見に向かった。心細かった。水道やガスは止まっていたが電気はすぐに復旧した。ありがたかった。

親戚の叔父さんから、神戸東灘にある母方の祖母の家が壊滅状態だと連絡があった。そして祖母は中に取り残されているらしい。急いで母と姉と車に乗って祖母の家へ向かった。その道中、信じられない光景が広がっていた。潰れた家の前で立ち尽くす人、一階が潰れ傾いたマンション、ごった返す人の波。壊れた信号機の交差点で、自主的に交通整理をする男性の姿。とんでもないことになってしまったと子供ながらに大きなショックを受けた。母は緊迫した声で「おばあちゃんがどんなことになっても覚悟しておくんだよ!」と車内で言った。

祖母の家に着くと、古い日本家屋だった家は跡形もなくぺしゃんこになってしまっていた。いつも優しい叔父が聞いたこともない声で、「こっちや!これをどけろ!」と怒声を飛ばしていた。近所の方の助けもあってしばらくして、祖母は寝ていた場所がよかったのか怪我もなく無事に救出された。心底ほっとした。

その後家に帰ってテレビをつけると、あちこちの悲惨な状況が映し出された。そして何より余震が怖かった。テレビで「今後も震度6クラスの余震が起きる可能性があり・・」と流れていたから、グラッと揺れるたびに今度はうちも潰れるのではないかと気が気でなかった。夕方ごろ、自転車で会社に向かっていた父が帰ってきた。そしてすぐさま連絡のつかない父方の祖父母の家に向かうという。祖父母の家は神戸市長田にあった。テレビでは長田は特に被害が大きく火事も大変なことになっていると報道されていた。祖父母のことももちろんとても心配だったが、こんな状況の中、夜に自転車で神戸まで行くという父のこともとても心配だった。行ってほしくないという気持ちだった。父が自転車で向かっている間、父が無事にたどり着くように家では家族で祈っていた。途中、公衆電話で父から電話があった。「無事に帰ってきてよ!」と言うと泣いてしまった。その後、父は無事に長田の祖父母の家にたどり着いた。祖父母は無事だった。火災の酷かった地区とは離れていたことが幸いした。また家も多少の損傷はあったものの倒壊の心配はなかった。父は確かその翌日に帰ってきた。本当にほっとした。

翌日からは給水車が来て水を汲みにいったり、食料配布のため小学校へ行って長蛇の列に並んだ。お風呂にはしばらく入れなかった。そして数日後、大阪の母の友人の家に姉と二人しばらく疎開することになった。芦屋はまだ電車が止まったままで、確か尼崎まで車で行ってそこから姉と二人電車に乗って大阪へ向かった。大阪で乗り換えのため降りた時、大阪は賑やかで普段と変わらないように見えた。そしてティッシュを配っていてとても驚いた。被災地ではティッシュは貴重品だったから。大阪と神戸でこんなにも違うのかと思った。それからしばらく、その大阪のお宅でお世話になった。

これが僕の震災体験だった。八百屋とは直接関係はないが、一人の少年の体験談として書いてみた。

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